小説「レディ・ジョーカー」 高村薫

読んだのはだいぶ前だけど、昨日の話から関連して。

ぎっしりと内容の濃い話で、頁数も多いし幾通りも読み方がある。
グリコ・森永事件を題材にした、身代金目的の社長誘拐事件が主題の犯罪小説でもあり、
大企業や警察組織の政権争いとか腐敗を事細かに描く社会派小説でもあり、
「マークスの山」「照柿」から続く、合田刑事の成長物語の締めくくりでもある。
そしてまぁ、それはいわゆる腐女子たちの大好物、「真実の愛」の到達点でもあります。
どの観点からでも、語る言葉はいくらでもあるんですが、
今回はその中でも大きなテーマのひとつ、差別される弱者の問題を少しだけ。

主役の犯人グループは、みんな何がしかの理由で世間から差別を受けている。
在日朝鮮人だったり捨てられた孤児だったり、重度障害児の父だったり。
主人公の老人は、血は繋がらないが非の打ち所もないほど優秀だった孫息子が、
大企業の令嬢との縁談で調査されて、被差別部落出身の血が入ってることがわかり、
それを理由に婚約破棄されて、自殺に近い事故死を遂げ、
その怒りから犯行を思い立ち、実行する。というような冒頭。
これはかなりヤバイ話だと思うし、よく映画化できたなと思ったが、
だからこそ、別にエロくもエグくもないのに、年齢制限がかかったんだろう。
こどもが見る時は、親が正しく説明を加えないといけない映画ということで。

小学生のときに、被差別部落について先生が触れたのを覚えている。
「差別は今もある。例えば○○君が大人になってきれいな女の人を好きになって、
 結婚したいと思っても、その人が部落民だったら、おとうさんはまず間違いなく反対する」
今にして思えばとんでもない授業ではあった。でもそこから始めるしかないのかも知れない。

「レディ・ジョーカー」というタイトルは、メンバーの一人の娘、重度障害者の少女が、
メンバーを結びつけた競馬場で、初潮を迎えたことからつけられる。
もう子どもではなく、レディだな、という皮肉交じりの祝福なのだけど、
19歳で結婚してこの子が生まれてから、ずっと必死で面倒を見てきたものの、
奥さんが疲れ果てて精神を病んでしまうにあたって、父親は徐々に煮詰まってくる。
ついに「この娘はババ。何で俺ばっかり」と口走って、映画では、かっこいい渡哲也が
「レディはジョーカーなんかじゃない、あんたの娘だ」と正論でたしなめていた。
でも原作では、娘がジョーカーであることは否定されない。それがひどくリアルだった。

映画のレディは、自分の事は何一つ出来ずに無表情に車椅子に乗せられている。
12歳くらいの子役はほっそりと小柄で、人形のようで、あえて言うが清潔そうで可愛らしい。
でも原作のレディは、もう17歳くらいになっていて大柄で、太って重い。
興奮すればまわらぬ舌で騒ぎ立て、失禁もする。それが現実なんだと思う。

だからこそ、私は原作のラストで泣いた。
父親はついに疲れきってしまい、レディの膝に全財産を残して失踪してしまうのだが、
老人はレディを見つけ、連れて帰って面倒を見る。
感情のなかった孤児の青年(この事件で、少しずつ人の体温を実感できるように)も一緒に
故郷に戻り、馬を飼い犬を飼い、家族になって暮らす。
それはファンタジーに近いくらいな絵に描いた理想かも知れず、
長くは続かないことかも知れない。それでもその光景が美しくて。

目を逸らそうと凝視しようと、きれいな布で覆い隠そうと、差別はそこにある。
ひとりにできることはわずかだと思う。でもゼロではない。
そんな風に思いました。

極力簡単に書こうと努力したんですが(苦笑)。でも一度まとめておきたかったので。
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by michiko0604 | 2007-05-13 00:29 | | Trackback | Comments(0)